Knight or Clown

 序章 異世界に来た?


本当に唐突だが、現実逃避がしたい。
それは簡単にできるそうだが、生憎と僕はしたことがないのでできるわけがない。
それよりもできるなら現実に帰りたい。
しかしそれが無理な話であることは重々承知している。
というわけで今すぐ逃げさせてください。

「……………」

思わず生唾を飲み込む。
これが俗に言う異世界迷い込みであろう。
迷惑なことこの上ない。
そんなこと一部現実というものがどれほど恵まれているのか分からなくなったもの以外、正直あってほしくないことだったりする。

まあ起こっても過去は覆せないものなので受け入れよう。
だがしかし! 少々命の保証ぐらいしてくれてもいいのではないか!
本当に異世界なのだからこちらの常識良識その他諸々が通じないのは仕方のないが、そのぐらいの初期設定ぐらいあってもいいのではと非常に思う。

落ちて早々というのはあまりに酷なことではないのかなと僕は思っているんだけど。
そこのところどうなっているのよ? 死神様。

豹のようなしなやかなフォルムでありつつもその体長は優に四メートルに達すると見た。
草刈り鎌のような大きな爪、牛も一咬みで昇天できるのではと思わせるというぐらいの顎と牙。
鋭すぎて本当に痛いその熱をこめた視線。
きわめつけは先ほどから涎が流れっぱなしの閉じない口。
なお涎は洪水のごとく流れ出ている。

なあ、こんな愛くるしくもなんともないただむさ苦しいだけの獣を殺すことにためらいはないのだが、一般人でも勝てるようなもの選んでくださいよ、神様。
これに勝つことが第一の試練なんてのたまったら殺しに行くよ。

「……………………」
「GYARIIIIIIIIIIIIIIIIIIII!」
「……………ハハッ、クハハハハハ」

そんな必死を定められたものを望んだ覚えはない。極々一般的な生活を望んだはずだ。
そんなことを考えていても状況はなにも好転しない。
OK、ここはひとまず頭を冷やせ、僕。
相手は欲の塊、倫理性なんて欠片も持っていないようなケダモノだ。
やりようによっては勝てる。
そう、"あいつ"だって全てに対しやりようによっては勝てるといっていたじゃないか!

まずは現在使える装備の確認だ。
現状を正しく理解できない輩が勝負できるわけがない。
何時埋め込まれたのか忘れた本能に従ってここは装備の確認を。

部活帰りのため、木刀と竹刀があるが竹刀は使えなかった。
理由、先ほど壊れた。
他にはジッポ、爆竹たくさん、カッターの刃、暴漢撃墜用のアーミーナイフ一本、明日の釣りのために買った金属ワイヤーのライン大量、普通のライン大量、かなりごつい釣り針十個、普通の釣り針二十個、重り。
割と何とかなりそうだが、一部を除いて近接戦闘用のものばかりだ。曲弦術なんて習得していないからできるわけもない。
しかもここは樹海なので遠距離攻撃は不可能だ。
よくて中近距離攻撃だろう。
さらに向こうには地の利があり、持久力も十分にある。
遠くに逃げたとしても体臭で見つかること間違いない、と。
………………勝てるかな?

「……しゃーないか」

爆竹に火を付け、投げつける。そして逃げる。
なんで爆竹を持っているのかというと、そこらのゴロツキをひるませるのにはこれで十分だからだ。
聴覚を有するなら時間稼ぎにはなる。
こう細く見えても身体能力には自信があるから少しは距離をとれる。
この殺さないと死んでしまう争いなので、勝てるように事を運ばないといけない。
頼むから今後何があろうとも生きるような真似はするなよ、虎公。
主に僕のために。

使えるもの以外すべて放置してきたので体が軽く、少し速く走れた。
それでも腕から少しずつ流れる血は確かに僕の体力を削っている。
最初にあれと出会った時にもらった傷だ。
服の下に鉛の重しを付けていなかったら死んでいた。
もちろん今は両腕両足ともにはずしてある。

先の奇襲で爆竹を半分ほど使った。
にらみ合っている間に導火線を調節しておいたので二分はもつだろう。
最低でも1分30秒は持ってもらいたい。
欲言いすぎだって? そんなことないだろ。

ある程度、とはいっても200メートルほどしか逃げなかった僕はラインとアーミーナイフを取り出した。
このアーミーナイフは祖父の形見であり、かなり切れ味がよい。
鉄も真っ青なぐらによい。
どうやって手に入れたかは不明だが、僕の主要武器の一つだ。
刃渡りは27cm、グリップは15cm。
ナイフというより短剣のほうがふさわしいのかもしれない。
いつも背中のホルスターに差し込んであるので今も持っていた。
そんなナイフだからこそ、このラインも切れる。木も削れる。

爺さん、あなたから習った罠各種は決して無駄ではなかったよ。
というかこんなことになるのだったら形見の一つ、デザートイーグル50AEももらっておくべきだった。
そう思いつつ僕は作業を進めていく。
何であなたは僕がいたずら目的で仕掛けた罠にかかって死んだのであろう。

遠くから餓えた獣の咆哮が聞こえる。もう少しひるんでいてほしかったのだが仕方がない。
気を引き締めていこう。

「クカッ、カカカ」

さあ、これからが狩りの時間だ。
貴様の全て、我が力を持ってして狩りつくしてやる。
頭の中で歯車がかみ合う音がした。
昔封印した別の自分が息を吹き返す音がする。

今迄に仕掛けた稚拙な罠、それも致死性の低いものがすぐに破られたら一貫の終わりだ。
そうなったら勝てる確率は極端に低くなる。
ただ、最後の罠にかかってくれたら勝てるだろうけど。

「GYULAaaaaaaaaaaaaaaaa!!!?」
「まず一つ、か」

虎公は予想通り地をかけてきた。
あんな巨体を支えられるような強度のある巨木はあることにはあるのだが、かなり飛び飛びのため移動手段として致命的に使えないと踏んでいた。
それは当たった。
当たってくれていないと罠が無駄になる。

それにしても、ラインがマグロなどを釣るものよりも太いもので助かった。
そうでなかったならあれの体重を支えられるような罠を作るのにもっと時間がかかったことだろう。
それぐらいあれは重そうだ。
虎公の一歩一歩ごとに軽い地響きがする。

ちなみにあの咆哮は虎公が第一の罠にかかったためだろう。
樹木の多面醜いが、大体ここから五十メートルのところに虎公がいることからまず間違いがない。
この樹海にはどういうわけかしなりがよく、かなり太い樹木がそこかしこにある。
枝に無数の鋭く尖らした、切ることに難儀した木の細い枝を大量にくくりつけ、横殴りの要領で相手を襲う罠を仕掛けておいた。
どうしても虎など肉食系の動物は全力疾走時頭を低くするため、目や鼻にその木の枝が突き刺さる。
そのせいで視覚や嗅覚が奪えれたら、と思っている。
ほかにも地面に木のくいをたくさんさしておいた。
末端神経は割とダイレクトに痛みを伝えるためそれは痛いだろう。
短い時間でもよくできるよね僕。そろそろ人間やめようかしら?

痛みというものの恐ろしいところは自分が単純であるなら狩る相手が自分よりも貧弱に見えるとき、怒りを覚え、さらに単純、猪突猛進になるところだ。
賢いものなら冷静になるだろうが相手はただのバカ、単純になる以外の手段はない。

そんなにも太いのは無理だったのでそれほど深くは刺さっていないだろう。
それでも相手の機動力は削げたに違いない。
その程度で十分だ。
どうせ時間と道具の関係上、それほど強い罠は作れそうにない。
ならばちゃちい罠でも効果的なものを選ぶ。

「お、来たな」
「GUGLAaaaaaaaaaaaaA!!」
「………良し」

右目と鼻に木の釘が刺さっている。
ほかにも体の所々に釘が刺さっている。
さらにはあの太い釣針もだ。
木の上から垂らしておいて正解だな。

足の痛みのせいか、それほど素早し動きはできていない。
だが人間からすれば十分に驚異的な早さであることに違いない。

――最後の罠まであと二十メートル、僕の所まであと三十メートル。

それはそうと、虎君、
君は虎なんかではなくて猪だったわけね。
額にある小さな黄金の角はその証といったところかな。
納得のいく光景だよ。

――はい終わり。

「GUGYLAA!!??」

使用済みの丈夫な網と落とし穴があったので再利用させてもらった。
落とし穴は結構深く掘ってあったのでちょうどよい。
四方にはあのしなりの良い木、それもかなり太いものがあったのでそれにラインを巻きつけ、補強した網を落とし穴にかかったら口が閉まり、上に持ち上がっていくように罠を仕掛けておいた。
そんな罠に見事にかかってくれた猪、君の馬鹿さ加減に礼を言うよ。
非常に一撃で殺しやすい格好になってくれている。

こんな暑苦しい食い物を殺すことがかわいそうだと思う感情はない。
ここは異世界、動物愛護法は昨日の内にほざいとけ。
僕が生きるためには兎だろうが神だろうが殺してみせる。
そもそも向こうからこっちに喧嘩を売ってきたのだ、自業自得といってもよい行為だ。

「フーッ! フーッ!」

背中からアーミーナイフを抜き、その食いものに近づいていく。
食いものは網を切り裂こうと必死だが、ラインも切り裂けずに肢体に食い込ませている食いものごときがそうたやすく壊せれる網を使う気にはならない。
食いものの顔が目の前に来た。暑苦しくて生臭い息が負の感情を助長していく。

「…………グッデス」
「GLARAaaaaaaaaaaaaaA! A…………!」
「……落ちたな」

眉間に力強くナイフを突き刺した。
断末魔が樹海に響き渡る中、確かに息の音が止まったことを確証してからナイフを抜いた。
それから小さな、といっても猪の体格からしてであってこちらからしてみれば手のひらサイズという十分な大きさがある三本の黄金の角をとった。
ついでにその爪も一つもらっておこう。
記念品としてだが、売り物にできるようならする気だ。
金のない僕にとって金は必需品だ。
故に守銭奴と思うなかれ。

その他に手近かつ軽量で金になりそうなものはなさそうなのでとりあえず人が住み着いている場所に向かうことにした。
まずは高い木にのぼり、首からぶら下げているミニ望遠鏡を使って近くに集落がないかを確認する。


――結果、とてもじゃないが日暮れまでに着けそうな所に集落はない。
故に森で一泊することを覚悟して森を通過しなくてはならないが、幸い肉はたくさんある。
一時ここに来た地点まで後退する。
あの時は捨てた物の中に使えるものがないかを確認しにするためだ。

そこで手に入れたものはまだ中身のある水筒、ミネラルウォーター二リットル、飴、鞄、ついでに道着。
あの獣の涎のせいでぬれたルーズリーフや教科書、剣道の防具は正直いらないので捨てておこう。

ここまでの行為を難なくできるのは一重に祖父と伯父以上に恐怖を与える存在を創造することができないからだ。
祖父はどんな状況下でも最良の勝利を勝ち取る方法と戦い方、サバイバル方法をこの身に刻み込ませた。
また叔父からは常に己の生を優先させる精神を無理やり基板にさせられ、僕の体を徹底的に鍛え、改造しやがった。
おかげでたぶんどんな状況下に立たされても生き延びようとするようになった。

僕は僕が異端だとは思わない。
その精神は生物としてあるべき姿である。
まあ人としては異常であるかもしれないが、そういうことはあの二人に言ってもらいたい。
ただし、遺書を書き残し、死を覚悟してから逝くように。
特に爺さんにおいては今いるのは地獄だと思うよ。

「はて…何か忘れているような……」

壊れた携帯を手でもてあそびつつ悩む。
とても大切な何かを忘れている気がするが、忘れてしまったのは仕方がない。
そのまま忘却の檻に入れてしまえ。

それはそうと、いつも熱弁しているけど調味料は必需品だよな。
皆口をそろえてそんなものは携帯するものじゃないというのだけどあったほうがよいに決まっている。
なので僕はいつも鞄の中に塩、粉胡椒、粗びき胡椒、バジル、オレガノ、ローリエ、クミン、一味唐辛子、山椒を入れている。
今回はクミン以外大丈夫だった。
それらの各種調味料がないと、ほら、僕の前にあるような肉がおいしく食べられないじゃないか。

火は持っているジッポで付けた。
ちなみにこの肉はもちろんあの食い物のだ。
食わずして何のための狩りだ。
肉には毒がないことを祈りつつ、焼いていっている。
この日どういうわけかあの奇怪珍妙生命体以外の食い物に遭遇することがなかった。

「……そろそろかな?」

香ばしい匂いが立ち込める。
これの匂いで不味いなら、神様、あんたを詐欺の罪で狩りに行くよ。
特に食物関係あたりから。
友達の家に遊びに行く感覚で、借金取りの気分で。

そんな本気はひとまず脇に置いといて、焼けているところから削いで炭をさらに削いで食えるようにする。
かぶりつくのは、ほら、無理のあることじゃないか。大きいしさ。
「……………なんで牛?」
猪のくせした牛肉の味がする。
そこは普通豚肉だろうが。
異世界ということで一応納得しておく。
かなり運動なさっていたようでかみごたえは抜群。
肉の味もしっかりしている。
そのため十分うまい。

「ま、いいか」

神よ、良かったな。首はまだつなげたままにしておく。

ちなみに一番近くの集落まで歩いて四分の一日と少しというところ。
明日は朝早くに起きてその集落に向かう予定だ。
この森がどれほどの悪路を持っているのか分からないため、なるべく早めに行動したほうがよい。

「…蛭なんて、出ないよな?」

ハッキリ言って、僕は基本食わない軟体生物は嫌いだ。
なんか、あのグネグネした動きは見ることにすら寒気を覚えて瞬殺したくなる。
ナメクジなんてもってのほかだ。

後ろには猪の皮が干してある。
結構上質なので売ったら金になるのではと考えている。
高く売るために丁寧に扱っている。
そこの河原で臭みが落ちるようしっかりと洗ったりもした。

「…………」

満天の星空を見上げる。
本当に僕はこんない世界に来てしまったようだ。
ただの一介の中学三年生にすぎないこの僕が、だ。
特異能力はあっても特殊能力はかけらも持ち合わせていそうにないというのに。
戦うことに関しては能があるけど。

「…………寝よ」

明日の朝は早くなることが見込まれているのでさっさと寝ることにする。
蛭が出てこないことを祈りつつ、食料が罠にかかってくれることを祈りつつ、僕は眠りに就いた。

今さらだけど、言葉ぐらいは通じるように設定してあるよな。
文字ぐらい読み書きできるよな。
できないならすごく面倒なんだけど。
ジェスチャーではやっぱり無理があるのですが。
そのあたりのことがわかってないなら、丑三つ時が楽しみですね!


次の日の日の出前、僕は自然と起きた。
こういうところは習慣としてある。
臨んだ時間に起きれる習慣は素晴らしいよ。
しかし昨日仕掛けた罠には一匹の食料がかかっていなかったので気分は絶賛下降気味だ。
仕方なく昨日釣って逃げられないよう石で囲んでおいた魚たちを焼いて食べる。

しっかり乾いた毛皮を巻いてラインで縛ってから背負う。
魚は二匹追加で焼いて大きな葉でつつんで昼食とした。

「さて、行くか」

ある荷物をすべて持った僕は集落へと足を向けた。
少なくとも今日中には到着するだろう。
到着できなかったなら水がまずい。
このあたりの生水は飲む気にはならない。
さすがに一度煮沸殺菌しておかないと。

それとは別で昨晩蛭が一匹も出なかったのは本当にありがたい。
ただ食い物がどうして出てこないのかが分からない。
もっといるものだろう。森は野生食料の宝庫なんだから。

まあそれから一匹の虫にすら遭遇しないということに疑問を浮かべつつも、大体11時ごろに森を抜けることができた。
そのときちょうどよい岩を見つけたのでそこで昼食にした。

さらに一時間ほどして獣道野道から普通の道に出ることができた。
広大な緑の草原が彼方まで広がっていくその光景は日本で見ることはまず不可能で、心洗われる気持がする。
少なくとも東京よりもこちらのほうが過ごしやすそうだ。

「――お、看板…」

この世界の文字を初めて見ることになる。
文字は残念なくらいに日本語ではないが、どういうわけか問題なく読める。
そのあたりに違和感を感じるけどそのうち慣れるだろう。
続いて試しに地面に文字を書いてみた。
そうして分かったことはやはり日本語が基本的に書けないことだ。
日本語で書ける言葉は見当たらない。
漢字すら単語となっているものは書けない。
いや書けないというよりも思い出せないに近い。
漢字がどのようなものであったか、もうさっぱりだ。
とりあえずこちらの世界の言葉が書けるので問題はないだろう。

看板が指示した町への道をさらに歩く。

「おーい」
「――ん?」

のんびり呑気に歩いていると後ろから声をかけられた。
声の主は僕の割と後ろにいる。
相手は馬車に乗っているのでそれほど待たなくてもよさそうだ。
しばらく待つとその全貌がはっきりと見て取れる。
髪はこげ茶色をしており、瞳は青色だ。

「なあ、あんた旅人?」
「ま、そうなるね」
「へぇ、めずらしいな。で、どこに向かっているんだ?」
「あっちのほうにある村。森の中で道に迷ってね。休むのと現在地確認を兼ねて」
「ああ、俺らの村か。俺もちょうど帰る途中なんだ。乗っていくか?」
「うん、ぜひ」

毛皮が地味に重たくて難儀していたところだ。
まさにちょうどのタイミングに現れたことに感謝する。
僕はその馬車の荷台に毛皮や荷物を乗せた。
ここから村までなかなかの距離があるようだ。

しばらくして麦畑の中に入って行った。
今の季節が秋のためか、周りには麦の稲穂が揺れている。
それはどこまでも続くような壮大な光景である。
さすがにこれだけだとそのうち焼き払いたくなるけど、時にはこれのほうがいい時だってあるものさ。
馬の歩みによる振動とこの空気が非常にあっている。
車ではこの味は出ない。

目的地であるあの村に着いたらまず、あの猪の毛皮を売れてなら売っていこう。
売ることが無理ならそれを代価に泊めてもらおう。

「なあ兄ちゃん。どこから来たんだ?」
「いやぁ、わからない」
「は? 覚えていねえのか?」

日本なんて国名を言ってもわかるわけがないだろ。
どうせなら記憶喪失で済ましていこう。そっちのほうが都合よくなる気がする。

「そうみたい。知識は残っているのだけど記憶が全く思いだせないんだ……」

人をだますことはたやすい。
嘘をつき続ければそのうち自分もだませれる。
このことを誰かに叱られて気がするけど、だれが叱ったのかは覚えていない。
たぶんお母さんかな。
あの人は嘘を突かれることが嫌いという知識がある。それに――

「名前は…思い出せないや」

どういうことか人の名前や愛称を思い出すことができない。
無理にでも思い出そうとすると頭痛とノイズがする。
記憶によっては本当に欠けているものまである。
人の名といっても自分とかかわりをもつものであって、歴史上の偉人や日本国の首相の名は思い出せれる。

「…………それって、まずくないか?」
「自分の名を思い出せないのが一番きついね」
「どこで気がついたんだ?」
「えっと…向こうのほうにある森の中」

どういうわけかうっとうしいまでに伸びた髪をかき上げつつ、そちらのほうを指差した。
髪はこんなにも伸びているというのに服は全く痛んでいないとは本当に不思議だ。
そこはい世界に飛ばされたからということで納得しよう。

「――――の森からかよ」
「何て言った?」
「そいつは悲惨だったな…」
「いやなんていったのさ?」

この若者は明らかに似合いもしないというのに空を見上げて悩み始めた。
似合わない理由は彼が農耕従事者であるからだろう。

「とりあえず、先生の所に連れていくか…」
「それって考えたことになるの?」
「あー、気にするなよ!」

叩かれると痛いのはどこでも同じなのでさらりと避ける。
それはあくまで普通の反応、行動だ。
だから避けて睨まれるのは割に合わない。
馬はのんびり歩いて町に近づき続けている。
僕はその間のんびり空を見上げていた。
秋の風が木枯らしの匂いを運ぶ中、そんなにも時間を消費せずに、村についた。
本当にこれは楽であった。おかげで助かったよ。

さていま僕の目の前には広いしっかりとした造りの家がある。
周りに比べ割と丈夫に建てられているようだ。見栄えのほうも良い。
これだけでその先生という人がどれだけ尊敬されているのかがわかる。
僕は扉に取り付けられたノッカーを鳴らした。

「…………………」

一分待ったけど反応がない。
二分待っても反応どころか物音一つしない。
三分待って、先に僕のほうが限界に達した。
まず荷物をすべて地面に下ろし、体に火を入れるため軽い運動をする。
それから眼を閉じ、深呼吸をする。

「…スゥ……ハァア」

無理に体を鍛えたためか、僕は身体の潜在能力を瞬間最大九割弱まで出すことができる。
普通に一時間ほど使い続けるのなら七割五分が限度だ。
これは力の使い方の違いだ。
どの筋肉をどのように使うか、これによって引き出せる力は違う。
必要な筋肉を使うことによって体への負担を減らし、その分さらに力を引き出せる。

僕が何度も死にかけた時代に手に入れた技術である。
手に入れた当初は何度も体を壊したが、いやはや慣れというものはなかなかのもので使い続けた過去を持つ今は体を壊すことが滅多になくなった。
それでも今なお九割を一日に合計三分以上使うと次の日は悲惨な目にあう。
主に筋肉痛と関節痛、動悸に吐き気、その他諸々が容赦なくやってきて2、3日は住みつきやがる。
故に僕はめったなことでは全力開放を使用しない。

今回はこんな木製のものなので七割もあれば十分すぎるだろうと判断している。
力がみなぎってきたことを確信した僕は後ろ回し蹴りを扉にぶつけた。

「――――ん、OK」

豪快な音を立てて扉が砕け散るのを見て僕は中に入っていった。
何のためかはよく分からないけどドアの裏にはバリケードらしきものがうず高く積まれてあったようだ。
それごと蹴り飛ばしたので問題ない。
粉塵舞う中、僕はさらに奥へと向かおうとした。

「……」

その先生というのは割とずぶとい神経の持ち主のようで玄関から入ってすぐの広間でうつぶせになって寝ている。
ほこりまみれになったまま寝ている。
瓦礫やらそういうのに半分埋まりかけているというのに尚、寝続けられているとは本当にすごい。
手に持つ木刀でつついてみた。

「――まだ、死んでねぇ」
「…………………………」

絶対にこれは寝言だ。
こんなことで起きるわけがない。
あんなことがあっても起きない人種がたかが木でつつかれたぐらいで起き上がるはずがない。
そんな奇跡あっていいわけがない。

僕は木刀をゆっくりと振りかざす。
せめてしっかりと眠らしてあげようではないか。
この世の喧騒とさよならさせてやろう。

実はこの木刀はリグナムバイタというかなり固い木でできている。
比重が水より重いため、水に平然と沈んでしまう気だ。しかも硬い。
かなり粗暴に扱っても折れない素晴らしい兵器だ。
たいがいの獣ならこれで殺せれる。

ヒュッという心地よい風を切り裂いていく音が刹那だけ鳴り響く。
決してブォンという鈍い音ではない。
軽快な音の次に鳴り響くは。

――ズガァアッ!

「………………エー……」
「エー、じゃねえよ! 殺す気か!」
「いや、眠りにくそうだからしっかりと永眠させてあげようかな、と」

木刀が床の木を突き破って刺さっている。
先生と呼ばれているためインドア派で、反応が遅いと思っていたらとんだ武術家だったということか。
その女性の首を狙った一撃なのだが、運よく避けやがった。
寝ていたはずだよね。
この人は人の親切を何だと考えているのだろうかな。

「それを殺す気だっつうんだよ!」
「うん、知っているよ」
「知ってんのかよ!」

よく叫ぶ人だ。
正直近所迷惑以外の何物でもない。
しかしこの家が村のはずれにあるのでそんなことはないようだ。
床から木刀を抜いて邪魔な物を打ち払う。元バリケードの残骸がいつの間にかガラクタ、ないしは燃料になる。

「…で、テメエは誰だ?」
「名前は忘れた」
「ハ?」
「記憶喪失なんだよ。知識は残っているけど」
「んなもん専門外だぞ、全く」

意外と無事に現存しているソファーのほこりを払って座った僕らはそんな会話をする。
窓ぐらい開けてくれよ。

「村人から万能超人って思われているようだね」
「みてえだな…で、どこで気がついたんだ?」
「ん? ……向こうの、森の中」
「ああ、あの森からかよ。ならしゃーないな」
「なにかあるの? あそこ」

コーヒーを淹れてくれた。
さすがにここにはインスタントはないので安心して飲める。
インスタントは苦いだけで、全く好きじゃない。

「ああ、まあな。あそこは一度はいると出れない。出れたとしても記憶を失うことで有名なんだ」

その化け物を見るような目つきは正直ムカつく。
それにしても名前がないことは本当に困る。
仕方がないので適当につくるしかない。
そんなにも難しくない言葉のほうがいい。

「……うん、僕のことはアキって呼んで」
「仮名か。本名が分かったなら教えろよ。アキは今後どうするんだ?」
「どうするって?」
「記憶ねえんなら頼る相手もいねえだろうが」
「ああ、かなうならここに住もうかな。長くなくていいけど」
「働くっつうんなら問題ねえぞ。都合よく一件家が空いてるしな。ただ、村長の許可は必要だぞ」

働くことに関して機材があるのなら問題はない。機織りもできるしね。

「ここの村人は基本気前がいいしな、しばらくは面倒みてくれる」
「……世話になったの?」
「まあ、な……」
そして沈黙が訪れる。何か嫌なことがあったのかもしれない。
その沈黙を突き破ったのは近くで起こった爆発音だ。
信じれないほどうるさくて耳鳴りが止まらない。

「ま、またかー!」

耳鳴りがやみかけてすぐ追い打ちといわんばかりに先生が叫んだ。
殴ってもいいですか? 殴ってもいいですよね。
こんな追い打ちをかけるのだからそのぐらいの覚悟は当然あるものですよね。
楽しみは後に取っておくため僕はそこで待つことにしたかった。

「貴様も来やがれ!」
「エー」

今回は様々な負の感情を心の奥底で温めつつ、先生の後をついていく。
この村では広いが、そんなにも大きな家ではないので目的地にはすぐについた。
しかしそこにある扉の隙間から洩れる焦げ臭いにおいのする煙が問題だった。
決して耐えられるような刺激臭ではない。
僕と先生はないも言わずに窓をけ破り、緊急脱出をした。

「…ハァ、臭かった―……」
「本当にな。ん、いるか?」
「あ、もらう」

先生から煙草をもらう。
僕はあまりに体が丈夫すぎるので毒の耐性が半端ない。
ニコチンなんてなきに等しく、ニコチン中毒にもならない。
体も壊さないし、肺がんにもかからない。
ただの気分で吸っていることが多い。
この煙草は日本のものに比べて割とうまい。
でも普通の人は吸うべきじゃないよ。
自殺するようなものだから。

まあ僕は毒が効かない分、薬も効かないけどね。
どっちもどっちっていう感じかな?

「……さてと。アキ、少し手伝え」
「んと、何をすればいいのかな?」
「すぐにわかる」

僕らは煙草を二本吸ってから室内に入った。
そのうち改装が必要だと思うのは何も僕だけではないことを祈るぐらい、この廊下には何とも言えない腐臭とアグレッシブな内装に満ち溢れている。
決して好きにはなりたくない意味だ。

「ここにいる奴は一度実験を始めると邪魔されねえようバリケードを張る習性があんだよ。
 それで先週から入れねえんだ」
「ほうほう」
「どうやって中に入ろうか模索していたら都合よくお前が来たというわけだ。
 ……壊しつくせ、怒り狂う竜の如く」
「……Ja」

とりあえずドアを叩いてみよう。
反響音からどの程度のバリケードが築かれているのか知るためだ。
かなり高く積まれ量もなかなかだがすべて木材だ。
すべてまとめて吹き飛ばすということもできないことはないが、実言うとあれってかなり面倒。
こういうときはあちらの技術のほうが便利だ。

「……スゥ」

どちらにせよいくらか開放しなければならない量を積んでいる。

解放値を10から40に。
まず左のひじでドアを殴り、右の拳で叩く。叩いた時の音はない。
そんな技術なので手ごたえはあった。
ドアノブをもってノックを入れた。
それだけの衝撃でドアとその後方にあったバリケードは木端微塵となる。
あらかじめ知っているから目と口を押さえていたとはいえ、塵芥がひどい。
僕は手に残った金属を下に捨てた。

「こんなものでどうでしょうか?」
「いい仕事したb」

さいですか。
やはり研究室とあって中は化学実験室で良く見かける実験器具がたくさん置いてある。
このようなものを作る技術はこの世界にあるようだ。
ソーダ法でも存在しているのだろうか。

「リンクスー、どこにいるんだぁ?」

先生はとても楽しそうに人の名前を呼んだ。
そうしつつ、奥のほうに歩いて行った。
僕は一仕事したので窓辺でたばこを吸う。

先生から給料として一カートンもらえた。
よくあの白衣の中に入っていたなと感心していたころもある。
残念ながら灰皿がないので、そこの排水口のふたを外してその中に放り込んだ。
先生の弾んだ声がまだ響く。
今のうちに出て行ったほうが処置も軽いと思うのだが、怖くて出られないのかもしれない。
その声を効果音に何となく作ってみた黒くて小さいゴミのような球体のものに火を付け、それも排水口の中に放り込んだ。

「リンクスゥ? どこだゴルァ」
「……バカ」

 しばらくしてひどく咳をする音と床の隙間から煙が上ってきた。

「……なあ、アキ。もしかして下にいるのか?」
「みたいだね」
「それじゃ、締めに行くか」

先生と二人でどこか床に段差がないか探す。
しかしそんなものを見つける必要はなく、向こうのほうから出てきてくれた。
床の一部がスライドし、赤茶けた何かが生えてきた。
確かに赤狐のような色をしている。

「よお、リンクス」
「や、やあ、ノエル先生。お久しぶりです」

般若のようになられているノエルという名の先生はリンクスをつかみ上げる。
先生の身長は約180cm、それに対してリンクスの身長は大体140cmと身長差が40cm近くあるために楽になせることができる技だ。
もちろんかましている技はあのアイアンクロー。当然だよね。

「イダダダダダダダダッ!」

あるはずもないミシッという音が聞こえてきそうな光景だよ。
しばらくそうしてリンクスの抵抗を見ていたけど、いくらかしてからリンクスの肢体から力が抜ける。
それを確認した先生はリンクスを捨て、踏みつけた。
先生、いくらハーフパンツ掃いているからと言って、もう少しははしたないと思う心をもちなよ。
それに、ヒールは痛いよ。

「リンクスゥ、お前二度とバリケード築かねぇって誓ったよなぁ?」
「えっと、誓いましたっけ?」
「ん〜?」
「しました!」
「今日からの晩飯はトマト料理決定な」
「そ、そんな…」

リンクスはトマトが嫌いということをしっかりと記憶しておこう。
僕の知るトマトとこの世界にあるトマトが同一であることはないかもしれないけど、そのあたりのことは後々知っていこう。

「ちゃんと片付けろよ」
「…………返事がない。ただの屍のようだ」
「……………アキ」

新しい煙草に火をつけていた僕はそう呼ばれたのでそちらのほうを見た。
先生が親指で下にいるリンクスを指差している。
大体のことを分かった僕は竹刀を入れるための袋からあの木刀を取り出す。

「リンクス、お前のことは忘れない。安らかに眠ってくれたまえ」
「アディオス!」
「……しくじってんじゃねえよ」
「いやぁ、以外と反応がいいんだね。もう一度やっていい?」

素直に言ってよけられました。
普通は腰をほぼ九十度曲げてよけるなんて思わないよ。

「次はしくじるなよ」
「あんたは自分の弟子に死んでほしいのか! この悪魔!」

息を吹き返すと同時に叫び始める。

「――――年増が!」

でね、僕は思うのだけれど、もう少し言葉に注意したほうがいいよ。
今の言葉は確実に禁句に入っているみたいだよ。
自らそんなことを言うなんて自殺行為以外の何物でもないよ。
そんなことを思いつつ、その場に木刀を残して窓から外に出た。

ここからしばらくは音声のみとなります。

「あーあ、せっかくの研究が全部パァだ」
「…なあ」
「なんだよ、おばさま」
「死ぬなよ?」
「な、なんで木刀がこんなところに!? あいつが置いて行っ――ヒギャ!」
「…ヒッ」
「ヒギャアアアア! ヤメテ! これ以上はやめてええええええええええええええええええええええ」
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」
「ギャヒイァア!」
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!」

僕は本当にこの村に住むべきなのでしょうか。
ひとしきりの音がやんだ後、窓から出てきた赤い木刀を受け取り、後で洗う決心をした。
中は興味ないので覗きません。
怖いからではありません。ええ決して。

「さて、村長のところに行くか」
「はーい」
「…あ、そうそう。俺の名はノエル・ウィング、あれはリンクス」
「よろしく」
「じゃ、早速殴りこみに行くか」
「おー。ってどこにさ?」
「ああ、村長のところ」

僕の予想ではあのリンクスのせいでこんなところのいるのだと思う。
ちなみに今は荷物になる毛皮などなどは家の中に入れさせてもらっている。
雨は降らないだろうけど、念のためにだ。

そして村長が住んでいるらしい、やはり周りに比べて少し大きな家に着いた。

「な、何事だ!?」
「よー、爺」

扉を僕にけり破らせたノエルはまるで借金取りのように入って行った。
なんというか、傍若無人だ。
とりあえずこんな借金取りは来てほしくない。

「ああノエルか。何の用だ?」
「新しくここにこいつを住ませるからな」

ノエルのほうが村長よりも偉いのではと思う。
そんなことはどうでもいいけど。

「まあ、よかろう。お主がその人か?」
「そうですよ〜、アキと言います。よろしく〜」
「ベル・オットーだ。村長をしている。しばらくは面倒をみるが、自分の食い扶持は自分で何とかしろ」
「はい」

そうだろうと思っていました。
僕は親類縁者の四人のせいで狩猟と機織りと鍛治ができる、と思う。
とりあえず、衣食住のうちの住は確保できただけでも良しとしよう。
でもね村長。住むところの住所だけ教えてもらっても全く分からないこと理解しているのかな。

なので都合よく近くを通りかかった村長の娘さんに場所を案内してもらうことにした。
その前にノエルの家に言って荷物一式を取りに行った。

「ここよ。前に住んでいた人が鍛冶師だったから内装が鍛冶場になっているけど、構わない?」
「うん、構わないよ。んと、鉄はどうやって手に入れたらいいのかな?」
「それなら市場などで売っているわよ。確かここにいくらか在庫があったはず」
「お、本当だ」

祖父の知り合いに刀鍛冶がいて、その人が後継者欲しさに僕を拉致して刀工を教え込んだ。
ただし日本刀の技術なので西洋剣とはまた具合が違うものになる。
どちらを作っても切り裂くための剣にしてしまう。
試し斬りはあの森や裏手の山にいる獣を使えばいい。
獣を狩れば肉も手に入る。まさに一石二鳥だよ。

「ところで、…その毛皮は何?」
「森で出会った変な獣の毛皮だよ。売ろうと思っているんだ」
「ふーん…いい毛皮ね。生活用品一式と食料と交換しようか?」
「うん、ぜひ」

村長の娘さんは良い人だ。
それにしても在庫の金属を見ていると何も鋼だけではないようだ。
まったく別種の金属も入っている。
宝石もあるけど、これって金属に混ぜ込むものかな。
装飾に使えそうな大きさじゃない。
そのあたりは順応性を見せつけるしかない。

都合よく道具はすべてそろっている。
ただ炉の火が問題だ。
なんだかよくわからない装置がちらほらあって、何が何だか、どうして僕は使い方を知っているのかなという感情がふつふつとわき起こる。

そもそも僕は異世界から来たのだろうか。
たかが携帯ごときが異世界にいたことの証明にはならないから不安だ。
さらにはここまで微妙な記憶と言語能力と知識があるとそう思いたくなる。
記憶に名前がないのはそれが誰かに上書きされたからで、知識があるのはここに住み着いていたからで、そう考えたいけど心のどこかでそれを否定している。

「――どうしたの? 難しい顔しているわよ」
「う、ううん、なんでもない」
「じゃ、私は生活用品などを取りに戻るね」
「うん、またあとで」

そんなことを悩んだからと言って記憶が戻るわけもない。

毛皮がなくなったおかげで楽になった荷物を二階に持って上がった。
どうやら定期的に掃除が行われていたらしく、割ときれいだ。
そこの隅には掃除道具もある。
僕は今も着ている血が付着した学生服を脱ぎ、道着に着替えた。
できれば替えの服もほしいな。

「さて、掃除しますか」

確かに清潔だが、ここ一週間は掃除されていなかったようなのでほこりが積もっている。
他には燃料が一つもない。
村にいくつかある井戸から汲むのだろう。
さすがに隣の川から取った水を飲料水にするには煮沸消毒がいる。

まず僕は床を掃いて行った。
それから隣の川から水をくんで、置いてある雑巾を濡らしてから壁や床を拭いて行く。
たただね、どうしても床を拭くときは腰が痛くなるのよ。
仕方がないからあの雑巾を付けて立ったまま床をふけるようにするものを即興で作って使った。
窓ガラスには新聞紙がほしいところだけどそういうわけにもいかないので、仕方なく雑巾でからぶきする。

一通り寝室と一階の台所、廊下、階段、照明器具の掃除を終えた。
時間も余っているのでほかの部屋にも着手する。
他には倉庫一部屋、食材を置くための地下倉庫一部屋、寝室が一部屋だ。
割と多いが、まあこんなものであろう。
他には庭の草抜きもしたい。

飲料水だと思いたい井戸はこの家は村から少し離れたところにある。
そのほかに庭が少し広い。
ここにいくらかの食べ物を作りたい。
なんとなく食べられそうな果実をつけそうな木もあることだし、その辺はやりたい。
まあ庭に草抜きに至っては今から冬なのでやっても仕方がないが、来年に向けての準備だ。

そうしてこうして工房の掃除が終わりかけた時、村長の娘さんその他複数がやってきた。
忘れていたわけじゃないよ。覚えていなかっただけだよ。

「…きれい好き?」
「いや、ただ単に汚いのを許容できないだけ」
「それを世間一般的にきれい好きというの」

自分の生活区間内だけだから少し違う。
手が血塗れていても平気な人種がきれい好きなわけがない。
さて馬車で届けられた生活用品を中に持ち込んでいく。
フライパンなどの台所用品、替えの服、サイズはいつ計られたか知らないが、結構あっている。
他にはセッケンや薪、炭などの燃料、食器、タオル、羊皮紙とペン、墨汁、その他諸々。
机やイスといった家具はもとからあったのでいらない。
さらに斧やら鋸やらといった道具。のみ、鉋はない。
そこまで僕は大工ではない。
てか工作はナイフさえあれば十分だし。

それらを運び込んだ僕らは一時のティータイムにした。
茶菓子や茶葉は向こうが持ち込んでくれた。
もちろん紅茶だ。
聞く話だとこういうのは高いものから安いものまであるようだ。
当然僕は茶は好きだよ。

家の中はまだ換気中なので外で飲んでいる。
机は元から外にあるものを利用した。

「ところで…えっと」
「アキ。名乗ってなかったね」
「私は、言ったよね」

最初にこの家に来る途中で聞いた。
名前はシフィルだ。
フィルと呼ぶことにしている。
死をとってみました。
語呂ですよ、ええ語呂ですが何か。問題がないならそこ、黙ってください。

「私たちは言ってないね。私はネイル・ゴッデスロンド。彼は弟のアーク」
「よろしく頼むぜ」
「同い年はほかに何人かいるけど、彼らのことはまた明日にということで」
「明日に何かあるの?」
「それは後での楽しみということよ」

一応納得しておく。
明日に分かるというなら焦る必要はない。
ゆっくりいこう。
それにしてもこのクッキーは甘くない。
砂糖が高いなら蜂蜜を取りに行こうよ。
マリー・アントワネットもパンがないならケーキを食えばいいっていっているじゃないか。
え? 知るわけがない? それもそうか。

「……どうしたの?」
「ちょっくら蜂蜜取りに行きます」
「どこまで?」
「あの森。というわけで馬借りますねー」

迷いそうにない森だから問題ない。
蜂に刺されないかという心配はない。
あんなとろい生物に後れをとれる自信がない。
刺される前にその針を切り落とす。

そうこうして馬をかけさせること20分、やっと森の入り口付近についた。
馬は近くの木にその口縄をくくりつけて逃げられないようにする。
借り物だからね。

「♪」

さっさと中に入る。
この時点誰か不特定多数の人に怒られてしまいそうだがそのあたりは気にしない。
たぶんこの森で迷うのはこの狂気と磁場のせいだろう。

どういうわけかここには殺気というより狂気が充満している。
そのせいでどんなに戦闘慣れした人でも迷ってしまうだろう。
僕のように生きることに対し貪欲で、戦闘慣れしているというより戦闘狂で、少なくとも何らかの死を一度は経験していないと正気は保てない。
その上あの猪のような獣すらいるんだ。
今さらだけど、僕はよく生きていたよ。

ナイフを左手に持っていく。
いつでも触れるようにしておかないといけないものだ。
工房には剣があったことにはあったけどさびているのが大半だったし、大概が粗悪品だった。
前に住んでいた人の腕はかなり悪かったことがよくわかる。

適当に歩きつつ、奥に入っていく。

「……わお」

上空に蜂を発見したのだけどやはり規格外にでかい。
大体1mあるかないかというぐらい。
しかしその程度でひるむ僕ではない。
むしろ狙いをつけやすくなっていい。

「さーて……Ready Go!!」

解放値を70にあげてその蜂を追いかける。
足に大量の花粉をつけていたから今から巣に帰るところなのだろうと判断できる。
だんだん巨大な木になってきたので対象を見失わないように木の上を駆けていく。
まるで忍者の真似事だ。
それ以前に70でこんなにも力があったかな?

「…あれか」

蜂がでかければ当然巣もでかいわけで、かなり大きな巣が信じられないような巨木のベッタリとある。
なんにせよ問題ない。
工房から持ってきた数少ない使える凶器の小さな投擲用ナイフをラインに結んだものを取り出す。
五本あり、すべて左手の指に取り付けている。
曲弦術はできないけど、操糸術は得意だ。

どうやら向こうもこちらの存在に気がついたようで迎撃部隊がこちらに向かって来ている。

もちろん迎え撃つ以外の戦法を使う気にはならない。
最初に来た一匹の脳天にナイフを差し込みつつ踏み台にし、さらに空へと掛ける。
上から下に左手を振り落として投げナイフを当てる。
洒落にならないぐらい研いでおいたので昆虫の甲殻ぐらい何の問題もなく突き破った。
狙いは首と胴体の継ぎ目に当たるところなので一撃死だ。
次々と襲いかかって来る蜂のみを殺していく。
時々かわせない攻撃を仕掛けてくるものもいるけど、そういうものは蜂の針をつかんでよけたりするから問題ない。

「GISYAAAAAAAAAAAAA!」

ところで虫はこんなふうに啼かないよね。
そのあたりはおかしいよね。まあ、いいけど。
殺していくだけだし。
そう、たとえ何匹来ようが関係なく、殺してい、く。

「ちぇー」

逃げないでほしかったなあ。
ただ僕が蜂蜜を取りに来ただけということがばれたのかもしれない。
今度来る時はちゃんと装備を整えてから来よう。まだ40匹しか殺っていない。
時間もアレなので、仕方なく挑発もやめる。

「よっと」

上手く巣の歩きにナイフを突き刺して巣のすぐそばに降り立つ。
蜂蜜を持って帰るためにこの牛乳などをよく入れている鉄製の容器を二個持ってきたので問題ない。
持ってくるのが本当に面倒だったけど、一度の持てる量がすごいからよしとする。
本当にここはこういうナイフがないといけないようだ。
さもないと足場が確保できない。
この木はむかつくぐらい表面が滑らかで、ほぼ垂直に生えている。
その上、枝ははるか上空にあるという根性を見せ付けている。

「――ん?」

一匹の蜂が来た。
いや蜂かなと思うような生き物だ。
女性の背中に蜂の羽を取り付けましたというようなかっこうだったらさ、誰だってそう思うよ。
しかも妙齢の女性が、だよ。
なかなかの肉体の持ち主で、と思うしかないよ。
おまけに光の粒をまき散らしつつ飛んでいるしさ。
服は着ているけど、かなり薄そうなワンピースだし。
寒くないのかな、あの格好。
大きさは大体20cmくらいだ。
フランス人形見たいだね。

「あのぉ…」

虫がしゃべることなんてないので無視しよう。
いくらファンタジックな世界と言ってもあっていいことと悪いことがある。
そう考えた僕は蜂蜜の採取を続けた。

「私の分もこれに入れてくれますか?」

その虫にとってでかい瓶を取り出しても断固無視する。
その瓶のせいで両手がふさがっているとしても無視する。
決して妖精が見えるほど純粋な心は持ち合わせていない。
確かに純粋な心らしきものは持っているけれど、それは間違った意味での純粋な心だしね。

「あのぅ、見えていませんか?」
「うん、全く。これっぽっちも。羽付き人型虫なんて見えていなよ」
「うう、そうですか……仕方ありませんです」
「だからさっさと帰れ?」

顔の近くを飛ばれていると正直に言ってうっとうしい。
ついついナイフを投げつけたくなる。
ふと、妖精って食えるのかなという考えが脳裡をよぎった。
ふとなんだけどね、一度そういう考えを浮かべてしまうと。

――煮るか焼くか、それが問題だ。

仕方ないでしょうよ。

「…って、しっかり見えているじゃないですかー!」
「…………」

肉付きが悪いうえ、そんなにも食べられそうな所がないのであきらめよう。
こんなものの活用法は出しを取る以外思いつかない。
しっかりと見え聞こえている知う事実を知ったその虫は僕の顔にビンを押し付け始める。
僕は今片手で容器を一つ持ち、ラインでもう一つも固定して横のほうにおいてある。
さらに足で三本のナイフを扱ってこの場にいる。
もう片方の手で蜂蜜を器用に搾取している。

「それをしたら何をくれるの?」
「えっと……無料奉仕活動じゃ、だめですか?」
「この世はそんなにも甘くはない」
「ムー、なら……」

さて、この虫が悩んでいる間に蜂蜜はたまった。
これ以上ここにいる理由はないので帰ろうと思う。
でもそれも止められるのが運命だ。

「じゃね」
「お願いだから行かないでくださいですぅ!」
「だから、何をくれるの?」
「うう…………オリハルコン」
「オリハルコン?」
「うん、それあげる」
「…わかった。けどね、もう一つお願いしてもいいかな?」

僕は欲を出した。
ほら、こんなところにいるからね。
あれ、面倒なんだよ。

「終わったら降ろしてくれないかな?」
「いいですよー」
「やた」

というわけで、僕はその虫(?)が手に持つ瓶を受け取った。
棒のほうはもう一つと同じように置いてある。
ただナイフが一本だけだと正直不安があるのでもう一つのナイフをさし、足場代わりにしている。

「…はい、終わり、と」
「ありがとー」

しっかりとビンのふたを閉めておいた。
しっかりとね。それはもう、力の限りな。

「じゃ、下に降りますね〜」
「いいよ」

ギュルリ、と世界が反転したような感じがした。
本当にそんな感じだった。
こんなことに対する知識は持ってなかったので尻餅をついてしまう。
蜂蜜の入った容器は倒さなかっただけでも良しとしよう。

「じゃ、私はオリハルコン取ってくるから」
「さっさと帰ってこいよ〜」

日暮れまで時間はあるが、さっさと帰りたい。
巨木の下の草原でゆっくりとしていた。
十分ほどしたらその妖精がやってきた。
その手に持ったかごに入れて運んでいるものは鉱石とは似ても似つかないものがある。
三個とも受け取ってから聞く。

「………それが、オリハルコン?」
「はい、そうです。人間の社会で出回っているのは偽物ですよ。エルフさん」
「あのね、僕も人間なんだけど」
「…………………え?」

いままで気づいていないというようないい表情だ。

「え? うそです! うそ…………ホント……あれぇ?」

オリハルコンは僕の知るものでは鉱石だったのだけど、本当のものは違うとは。
どうでもいいけどね。

「どうやってここに入ってきたのですか!? 人間は入ってこれない呪いがあったでしょう!」
「呪い? ……ああ、あの狂気か」

道理で妙だと思ったよ。
殺気にしてみれば殺意が弱すぎる。
しかしながらそこにあるのは確かに死だった。
僕はそれが平気だから問題ないけどね。
普通の生活しかしていない人は発狂するよ。

「まあそんなことどーでもいいじゃん。で、ここはどこで、君は誰?」
「ここは…………始まりの里(アヴルヘイム)です」
「へえ、僕はアキ。よろしく」
「私はアウラ、風の妖精をしています。それにしても、どうしてここに来れたのですか?」
「わからないよ。んと、僕はもう帰るね。またいつかどこかで会おう」
「はい!」

しっかり儲けさせてもらいました。
僕はこれがオリハルコンであることを知らなかったが、もう一つの呼び名でいうのなら知っている。
それは、鏡水晶。
はてさて、どういうことだろうね。
僕はアウラという妖精と別れ、超特急で家に帰って行った。
日暮れが始まる前に帰らないとたぶん彼女たちは激怒する。
僕はマゾではないので叱られても少しもうれしくはない。
もちろん馬は忘れずに連れ帰ったよ。
荷物の上に僕まで乗るとかわいそうだったから走ったよ。

「お帰りなさい」
「ただいま〜」

所要時間は大体四時間。
本当に日暮れ間近に村に帰れた。
間に合ったかなと思いたかったけど二人ともとても怒っているみたいだ。
眉間のしわがそのことを如実に物語っている。
怖くはないんだけど決して気持ちの良い光景じゃないよね。

「あなたは今まで」
「はい、これ。蜂蜜だよ〜」
「キャァァァアアア! うそ!? 本当! うれしー!!」

そういう方にはこういう甘い物で機嫌を直してもらうしかない。
もちろん可食の蜂蜜です。
搾取する前に食べてみたらかなりうまかった。
焼きたてのパンにたっぷり載せて食べたらどれだけ美味しいことやら、想像するだけで涎にあふれるほどおいしかった。
このおいしさを伝えれないことが非常に心残りです。

「蜂蜜って高級品なのよ」
「へぇ」
「こんなにもたくさん、ありがと!しかも、おいしー!」
「おいしいお菓子をたくさん作ってね……って、全部はあげないよ。僕の分もあるんだよ」
「ま、それはそうよね」

家の中から瓶とお玉を取り出して、それの中に蜂蜜を入れた。
パンのほうは彼女らが運んでくれた食料の中に入っていたので問題ない。
ところでアーク、なんでそうも胸を押さえているのかな。
もしかして甘いものが苦手なのかな。
僕は基本的に頭も使うし肉体も使うから、即時栄養補給できる甘いものは好きだ。
特にブドウ糖の塊は良かった。

「ああ、もうこんな時間。それじゃ、私たちは帰るね」
「蜂蜜、ありがとね」
「ほら、さっさとアークも乗る」
「へいへい」

僕は彼女らが帰ったのを確認してから家の中に入った。
もう夜は遅いので、工房の掃除は明日にしよう。
でも今日のうちに飲料水は汲んでおかないといけない。
料理にも使うのでさっさと汲んでおこう。

大きめのカメを担いで村の中心にある井戸に行った。
一番近いところにある井戸がそこだからだ。井戸とはいっても汲み上げる一般的な掘り抜き井戸ものではなく、噴水のようにあって、その中心にある像から水が湧き出している。
だからそこにカメを置くだけでいい。

水を汲み終えた僕は夕食を作り始めた。
ポケットに入れていたオリハルコンは二階にある貴重品を入れるための箱の中に放り込んでおいた。

今日の夕食はもらったカモのソテーとサラダ、それとパンだ。
パンを食べてみてわかったことだけど、ここでは小麦だけの白くて柔らかいパンは高級品らしく、一般的にパンと言えばこのようなライ麦パンを指している。
僕はこちらのほうが味があって好きだから問題ない。
ふと朝食には卵がほしいな、と思った。
そのためには鶏もいる。
しかし鶏を飼うとなれば鶏小屋も再建しないといけない。
小屋はあることにはあるのだが、材質が木材なので不味いぐらい腐食していた。
木材は近くの森から取ればいい。
必要な道具はナイフや斧程度。
ついでに切れ味が良すぎるあの刀さえあればもう言うことはないだろう。

「……………」

もう一つ、言ってもいいかな。
食器を洗っているときに、遠くで大きな爆発音がありました。
何やったのさ? リンクス。

晩御飯も食べ終え、片付けも終えた僕は隣にある水車の存在理由を知りにそのあるところに行った。
家は土壁ではないからそうでもないが、たいがいの木製のところは腐食が激しくて使いものにならない。
それはこの水車小屋にも言えることだった。
中に入ってみるとそんなにも難しくはない金属製の歯車などがかみ合ってできた装置が鎮座している。
よく調べてわかったことはこれがふいごの役割を担っているということぐらいだ。
工房にあったレバーで風量を調節していくみたい。
周りの木の壁は修理が必要だけど、中は油を差せばすぐに使える。
暇になったらここの歯車もいくらかは作る直したほうがいいけど、使うことには問題ない。
実はもっと詳しく調べたいところだけど、今ある香料がランプ一個と心もとないので今日のところはあきらめよう。
油もただじゃないんだよ。

以上のことから明日すべきことは工房の掃除、鶏小屋と水車小屋の修繕、鶏を何羽かもらう、庭の草抜き、優先度もこの順番だ。
時間が余れば炭作りでもしよう。
鍛冶は割と炭を使うのでまあ今ある炭専用の倉庫にあるものだけで足りるといえば足りるけど、炭は消費物なのでたくさんあったほうがいい。
このあたりには木がたくさんあるのはそのためか、と思いたくなるほど僕は使う。
僕がいたと思う前の世界では炭作りにかなりの時間と量力を消費しなければならなかったけど、こちらでは装置に入れてスイッチ一つ押すだけで次の日には出来上がっている。
なんという便利さであろうか。
どういう仕組みなのかは分からないが、この世の時間法則はかなりねじ曲がっているといっても過言ではない。

そして、僕は工房にある前の人が残した金属の固さを知りつつ、生活用品の一部に入っていたこういう金属についての本を読み返して、いいぐらいに更けてきてから寝た。
やはりベッドなどがあるほうが寝やすい。

ちなみに今書いているこれは日記。
また記憶をなくすことに不安を感じたので書いていくことにしました、ハイ。


/End